近代産業の発展を支えた
赤金鉱山
赤金鉱山は口沢にあった鉱山の総称で主に銅鉱石を採掘しました。奥州藤原氏時代に開発されたとも伝えられ、同様の伝承をもつ米里の古歌葉金山に続く鉱脈に属しています。鉱床はマグマから供給された物質と周囲の岩石との反応によって生じる高温交代鉱床に属し、米里層中の米里・赤金、芝層中の大倉・東などの10鉱床があり、鉱石は磁鉄鉱、磁硫鉄鉱、黄銅鉱などが主体です。江戸時代には捲ヶ洞・野口両銅山が開発され、人首村の根津葉銅山と合わせて文政年間には3・595両の利潤をあげるまでになりました。
近代には赤金鉱山と総称し、明治26年(1893) には岩谷堂の村井商店が試掘権を登録。後年に米里村の栗木鉱山と合併して栗木鉱山株式会社を設立しますが、大正元年( 1912)に伊手村赤金鉱区は大阪の藤田組に譲渡されました。以後、藤田財閥の中で所有が変遷し、終戦間もない昭和20年(1945) の12月に同和鉱業株式会社が設立され、赤金鉱山の開発が本格化。岩手県でも赤金鉱山帯の資源開発を県の総合産業開発に位置づけて事業協力に力を注ぎました。かくして赤金鉱山は最盛期を迎え、銅の産出量は県内全体の産銅量の一割を占めるまでとなり、同時に伊手地区は鉱山の町としての発展を迎えました。昭和47年(1972)、同和鉱業の合理化に伴い鉱山事業は江刺興業株式会社に引き継がれますが、世界的な銅需要の低下と銅価の下落から
昭和53年(1978) に鉱山部門が閉鎖。現在は砕石・石材事業に主軸を移し、建設・土木産業に資源を供給しています。