伊手地区は、みちのくを縦断する奥州街道から分岐した気仙街道が抜ける要衝の地として宿駅(伊手宿) が置かれ、市店などによって町場が形成されてきました。天文7年(1538) には江刺美濃守信重と気仙郡の千葉大膳大夫胤継が伊手郷で合戦に及んだとの記録があります。『葛西真記録』には葛西氏家臣として「伊手隼人 居住伊手村」「及川左近次郎 伊手村主」がみえ、『仙台領古城書上』には「新谷(荒谷) 城主 及川左近」「狐石城主 及川常陸」の名が挙げられています。馬場先の菊池館は付近の屋号に大手、官代、釜場、馬場崎があったほか、家中町という集落があったと伝えられ『安永風土記』には菊池末之丞の家臣屋敷20軒が上伊手にあると記されています。的叟寺の寺伝によれば、菊池氏は九州菊池氏の子孫で、菊池信方のとき18人の家臣とともに上伊手を訪れ、江刺郡を支配していた葛西氏の臣として菊池館に住んだといわれます。慶長年中(1596~1614) には伊達政宗に召出され、菊池作兵衛が江刺郡指引 (統括) として知行高50貫文で兵具と足軽30人のほか家臣扶持を許されました。寛永年中(1624~1644) には六右衛門が藩の大番組士を務め、村内の荒地を開拓して知行地7貫878文を加えています。なお、江刺郡東方大肝入を代々務めた角懸村菊池氏は同族とみられます。
藩政時代、伊手村には元和3年(1622)に伊達政宗の叔父藤田但馬守が岩谷堂から転封。併せて仙台藩直属の足軽20人も配置され藩境の警備にあたりました。しかし、延宝6年(1678)、藤田右兵衛宗景は松島瑞巌寺に立てこもる事件を起こし、宗景は涌谷で切腹。二人の息子もそれぞれ佐沼と口内で切腹し藤田家は断絶しました。
その後の伊手村は奥郡奉行の支配下に置かれます。町場には本町と新町の二町があり、奥郡奉行付属の足軽屋敷20軒が町内に配置されていたほか、検断が置かれ町場を取り締まっていました。
天明8年(1788)、幕府巡見使が仙台領内巡見のため江刺郡から気仙郡へと向かう途中で伊手町に宿泊。その規模は正使をはじめ従者も含めると100人
を超える人数でした。この時の巡見に随行した地理学者、古川古松軒)は著書『東遊雑記』の中で、種山の紅葉の美しさを記しています。
藤田氏は代々、伊達郡懸田(現福島県伊達郡) の領主で掛田姓を称していましたが、掛田宗和は天正4年(1576)、伊達輝宗に仕官し一家に加わったことを契機に藤田姓に改め、藤田但馬宗和を名乗りました。
慶長7年(1602)、政宗の命により宗和は江刺郡口内の浮牛城に配され、元和7年(1621) には岩谷堂城の城代に任命され休息所として伊手村を拝領。ほどなくして岩谷堂は伊達忠宗の御部屋領となり、宗和は伊手村で余生を過ごし正保3年(1646) に没しています。家督は婿養子の宗喜(藤田但馬宗喜)が相続し、宗喜は伊達家中の名門、茂庭家から養子(藤田右兵衛宗景) を迎え家督を譲りましたが、宗景の起こした松島瑞巌寺立て籠り事件によって藤田家は断絶となりました。
藤田家中之者共乍憚奏上申御事
元禄16年(1703) 紙本墨書 個人蔵
藤田氏の家中らの連名による書状で、藤田氏の経歴とともに伊達家に対するこれまでの功績が記されています。また、延宝6年(1678) の断絶によって家臣たちが路頭に迷い苦労を強いられていること。年月の経過とともに主君の墓所
も荒れ果て見るに耐え難いことなどが述べられており、藤田家の名跡再興を陳情しています。
【参考資料】
藤田氏位牌 延宝6年(1678) 高林寺 蔵
藤田宗景の瑞巌寺立て籠り事件は、宗景のいわば乱心による行動であったとされ、政治的な根源を帯びた事件ではありませんでした。その後、この一件は藤田家の居館がある伊手村にも伝えられますが、「藤田但馬は岩谷堂から伊手村に転封されたのを遺恨に思い、政宗の三回忌法要の際に位牌を切りつけ、そのまま伊手へ逃げ帰り切腹した」という誤伝が広がります。
高林寺に伝えられる二基の位牌は没年月日から宗景もしくは息子の宗安・宗春いづれかのものと推定されますが、後年の建立であった可能性が考えられます。
仙台藩の「文政六年転法」に係り村ごとに制作された「分間絵図」の下絵図と
みられ、伊手村の様子が概略的に描かれています。
図中には村域の中央を西流する伊手川と人首・気仙・磐井方面へと至る道筋が色分けされ、町場には「伊手宿」「御足軽」と明記されています。高林寺、真行寺、的叟寺、明蔵寺のほか、「毘沙門」「ヤクシ」の仏閣も描かれ、山林のほとんどには藩の直轄であることを示す「御林」の文字がみられます。
東北地方を襲った天明の大飢饉とそれに伴う疫病の流行によって仙台藩領内では約5万人が犠牲になったといわれています。さらに寛政に入ってからも北上川やその流域の河川の大洪水に襲われるなどの影響による生活困窮者が多く、その実情に目もくれず常態化を続ける藩の郡村仕法に対する農民の不満も頂点に達していました。
寛政9年(1797) 3月7日、口沢の清三郎の指導により農民が蜂起し、仙台城下への強訴を果たすべく、隣村の横瀬・浅井・角懸・次丸・原躰の農民らとともに岩谷堂に集結。岩谷堂伊達家は家老を現地に派遣し農民の要求を村ごとに嘆願書として出させ藩に進達することを約束しました。12日になるとその動きは江刺郡全域、さらに胆沢郡に伝播。水沢や前沢でも衝突が起こり、それに触発されて磐井・気仙の各地でも農民が上仙の動きを強めました。その規模は仙台北部の諸郡を合わせた10郡4万人となり、仙台藩空前の百姓一揆「仙北十郡一揆」となりました。騒動は5月上旬には収束しますが、各村から出された農民たちの嘆願は概ね、不当な課税・借上に対するものや買米に対するもの。郡方役人・村方役付に対するもの。窮迫農民救済に関するもので、これを受けた仙台藩では郡村仕法を改革し、不正や私曲を働いた役人や大肝入・村肝入を処分し交代させるなどかなりの点で施政改善を実施しました。これを「寛政の転法」といいます。この新法により、農民が苦痛としていた諸役人からの重圧は軽減し諸償も軽減。作事や普請に要する夫役も改革され、年貢の先納もなくなりました。
それと同時に首謀者の召捕処分も行われ、代官は多数の捕手を引き連れて清三郎を召捕るべく口沢に向かいました。清三郎は騒動の先導者として処刑され、生家の前の供養碑には「寛政10年12月19日」と命日が記されています。
「寛政の転法」を引き出した清三郎の強訴は後の農民の意識に大きな影響を与えます。慶応4年(1868)、三照・倉沢・高寺の三ヶ村の農民が蜂起した際、群衆は「寛政の転法」を引き合いに出して施政改善を求めており、さらに嘉永6年(1853)、盛岡領の田野畑村で蜂起した群衆は浜通りを南下し、隣藩である仙台領気仙郡唐丹村へ越境し仙台強訴を成功させ、仙台藩に対して「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地もしくは仙台領にしてほしい」と訴えました。
南部百姓騒動手配
寛政8年(1796) 紙本墨書 個人蔵
寛政8年(1796) の冬、盛岡藩領の鬼柳村で勃発した大規模な百姓一揆とその経過を知らせる書状。群衆の勢いは藩境を越えて押し寄せて来る場合や領内の農民に伝播する恐れもあったため、隣藩の一揆に際しても仙台藩では藩境および領内の警戒を強化しました。なお、この情報は伊手村にももたらされ、口沢の清三郎は意を決して翌年の強訴に踏み切ったとも考えられています。
三沢信濃書状
寛政9年(1797) 紙本墨書 個人蔵
前沢領主、三沢信濃から岩谷堂館主の伊達隆兼に宛てた書状。
清三郎が主導した強訴は江刺郡から胆沢郡に拡大し、各地で衝突が発生しました。徳岡村では捕縛者があり、前沢では群衆を鎮めるため出向いた足軽数名が負傷したことなどが綴られています。なお、三沢家では登米伊達家に救援要請を行い、登米から鉄砲隊が派遣される事態にまで騒動が発展しています。
五月二日出入司中江御奉行連名申渡候 写
寛政9年(1797) 紙本墨書 個人蔵
伊手村の清三郎らの強訴に端を発した仙北十郡一揆を受け、仙台藩ではそれまでの郡村仕法を改革し、かなりの点での施政改善を実施しました(「寛政の転法」)。本状はその内容を各地頭たちに布達したもので、代官の人員削減・郡村諸償の見直し・不必要な役職の撤廃と領内全域で300人前後の諸役人を減員することなど15項目の条項が示されています。
伊達大炊隆兼書状
寛政9年(1797) 紙本墨書 個人蔵
岩谷堂館主、伊達隆兼は天明3年(1783) の生まれ。寛政7年(1795) に12歳で家督を相続し、後に宗隆と名を改めました。寛政9年の百姓一揆の際には群衆が集結した大名長根に家老を派遣し収束を図り、前沢の三沢信濃、水沢の伊達将監、登米の伊達式部などと連絡を取り拡大防止に努めるなど、14歳という若さで事態に対応しています。
本状は騒動の対処に当たり、功労のあった家臣を称するための依頼状です。
南部一揆野馬台詩
嘉永7年(1854) 紙本墨書 個人蔵
野馬台詩とは暗号形式で書かれた漢詩で、ある一定の規則に従うと正しく読むことができます。
本品は嘉永6年(1854) に盛岡藩領で発生した「三閉伊一揆」を題材に、「暗君邪臣兵乱基・・・」と盛岡藩政を批判した内容が書かれており、盛岡領内で密かに流布されていたものと推定されます。
伊手村南北覚帳
文政7年( 1824) 紙本墨書 個人蔵
仙台藩では寛永20年(1643) 作成の検地帳(「寛永検地帳」) を拠り所に領内の課税を行ってきましたが、150年におよぶ原本の経年劣化と虫損・汚損などで使用に耐えなくなったことから、文政年間(1818~1829) に郡村ごとの村絵図と村勢の調書提出を命じました(「文政六年転法」)。
本品もその施策に係るもので、伊手村の田畑の石高を給地(藩士の知行地)・蔵入地(藩の直轄地) に区分し記録したものです。なお、伊手村の総石高は216貫928文と記されています。
時代の過渡期に活躍した父子
佐川五郎七
初代佐川五郎七(1811~1872) は江刺郡伊手村に文化8年(1811) に生まれる。
元治・慶応年間(1864~1867) に藩政時代最後となる江刺郡東方大肝入に就任。農業の安定と経済の向上に努め稲瀬村男山(現北上市稲瀬町) のふもとを開削し、隧道を開いて北上川からの取水を容易にし江刺郡平野部の灌漑用水の恒久確保を確立しました。
二代五郎七(1832~1890) は初代の長男として伊手村に生まれ、明治維新後に大庄屋を務め、新体制下に各種の要職に就きます。伊手村戸長を経て伊手村初となる県会議員を務めたほか小学校を開設し、村界査定図・字絵図を作成するなど、新地方自治にも貢献しました。
雛人形( 附/飾台)
江戸時代 飾台/安政元年(1854) えさし郷土文化館 蔵
江刺郡東方大肝入を務めた佐川五郎七が孫娘を親戚筋に養女として入籍させる際に持たせた雛人形といわれています。人形の規模は男雛・女雛ともに高さ2尺。囃子は1尺で、享保雛の中でも最大級の豪華なものです。五郎七が京都より直接取り寄せたとも伝えられ
ています。
享保雛は享保年間(1716~1736)に金襴や錦を使用した豪華な人形として人気を博しました。面長ですっきりとした顔立ちで、女雛は袖や袴に綿を入れふっくらとした重厚感があるのが特徴。その豪華さを競い合うようかのように人形は大型化し、規模が
1尺15寸から2尺以上にもおよぶようになったことから、幕府はたびたび「奢侈禁止令」を発して取り締まりの対象としてきました。
駕籠 近代 えさし郷土文化館 蔵
駕籠は江戸時代もっとも利用された交通手段で、街道筋などの簡素な駕籠や江戸町内を歩く町駕籠が一般的に多く利用されてきました。一方で大名家などが乗る木製の箱状の駕籠は「乗り物」といわれ、庶民が所有することはもちろん、乗ることすらも許されませんでした。
明治維新を迎え、駕籠の役割は人力車へと代わり、そして自動車や汽車へと移り変わります。
本品は伊手村村長を務めた及川多門家に旧蔵。多門氏の先々代の当主、菊右衛門が所用したものと伝えられ、当時、水沢駅の利用に際して、その移動にこの駕籠を用いたといわれています。材質は木造漆塗で引戸部分には家紋があしらわれ、胴部は網代材で通気性が配慮されています。近代のものと考えられますが、豪奢な造りで江刺地方では他に類例を見ない貴重な資料です。
東北で現代総合商社の基礎を築いた
亀井文平(1883~1937)
明治16年(1883)、伊手村に生まれる。
亀井家は釜屋という屋号で酒造販売や漁網販売を営んでいました。
文平は13歳のとき仙台市大町で髪油・蝋燭などを商う高野商店へ奉公に出て商才を
磨き、明治36年(1903)、かねてから港湾都市としての将来性を見込んでいた塩竃に移り、亀井商店の暖簾を掲げます。
創業時の亀井商店の主な取扱い品目は砂糖・小麦粉・食用油・醤油・灯油などで、蝋燭の製造販売も行っていました。開業後、間もなくして岩谷堂町出身のヤスと結婚。ヤスは年端のいかない花嫁でしたが、文平を助け亀井商店の事業成長を支えました。初期の亀井商店の業態について知ることができるのは、ヤスの手記が残されているからであるといわれています。
当初は雑貨類を商っていた文平ですが、今後の燃料としての石油需要に着目。明治41年(1910) に日本石油(株) の代理販売店となり、現在のカメイ商事の基礎を築きます。その後は麒麟麦酒と契約し酒類販売を行うなど多角的な経営を手がけ、一代にして東北随一の総合商社を誕生させました。また、文平は郷里の江刺郡から職を求めてくる者の受け皿となり、雇用の創出・促進にも力を注ぎました。
村の未来を開拓した
境田寅之助(1878~1946)
明治11年(1878) に伊手村に生まれる。
岩手県巡査を長く務めたのち、帰郷して伊手村会議員となり、また、江刺郡産馬組合議員・組合長として郡の馬産の改良発展に貢献しました。その後、同村長を2期8年間務め、多くの反対を説得して村有原野400町歩を官行造林契約し、植林を実施して将来の村有財源の確保に努力しました。これが実を結び伐期となると分収金が入るようになり、戦後の学制改革による小・中学校および公民館の建設に、また、荒廃した道路橋梁の改修に大いに役立ち村の財源を潤しました。寅之助の没後、村民は公民館(現地区センター) の前庭に胸像を建立。その遺徳を偲び顕彰しています。
源休館
地神坊稲荷神社を囲む三つの大石は狐石と呼ばれ、『平泉雑記』に記される源義経伝説の源休館に比定されています。また、『仙台領古城書出』には及川常陸の居城「狐石城」とあります。
下浅倉の大石
二つの巨大な花崗岩で、大きい方が「男石」、小さい方が「女石」と呼ばれています。男石は18×26㍍で畳103枚分にも相当する規模です。表面には馬蹄形があり、源義家がこの地に訪れた際についた馬の足跡といわれています。