伊手地区は江刺地方の南東に位置し、林野が7割以上を占める山間地域です。藩政時代は伊手村と称しており、そのまま現在の伊手地区となっています。市街地や集落は北上山地の山間部と丘陵に所在しており、地域のほぼ中央に伊手川が流れ、その流域盆地上の平地に耕作地が開けています。山地は鉱山資源に恵まれ、平安時代以来採掘されたと伝える黄金坪金山はじめ、江戸時代中期以降は捲ヶ洞銅山・野口銅山が開発され、近代にも赤金鉱山として継続しました。ツツジの名所として知られる阿原山は、江刺地方では種山に次いで標高が高く、なだらかな地形を利用した牧畜などが盛んで和牛の放牧は夏季の風物詩にもなっています。大正6年( 1917)、盛岡高等農林( 現岩手大学農学部) の学生だった宮沢賢治は地質調査のため銚子山や阿原山を登り、伊手に宿泊。その夜に上伊手の「柿の木屋敷」の庭先で鑑賞した剣舞に感動し歌を詠んでいます。
伊手の成立時期については不明ですが、平安時代の胆沢城造営以後にほどなくして成立した江刺郡には『和名類聚抄』に「江刺郡 大井 信濃 甲斐 槁井」とあり、当時の郡内には4郷が存在していたことが知られます。このうちの信濃郷について小中田の「戸隠神社」が信濃からの移民によって祀られた神ではなかったかと考え、伊手を信濃郷に比定する説があります。古代江刺郡は北上川流域の平野部を中心に胆沢城下の社会基盤を支えながら発展しましたが、北上山地における律令行政の展開を探る上でも伊手は着目すべき地域といえます。久田遺跡では10世紀前後に営まれた集落跡も確認されており、その約100年後には隣接の浅井村に兜跋毘沙門天が造立されています。時は既に安倍氏が奥六郡に勢力を拡大し始めていた時代。以後、黄金坪金山の開発など伊手は鉱山資源の所産地として広く知られるようになり、奥州藤原氏時代をはじめ、その後の武家社会を支える地域基盤として発展しました。