岩手県のシシ踊りは、太鼓踊り系と幕踊り系に大別することができます。太鼓系を象徴するシシ踊りはほぼ八頭で構成されており、いわゆる「八ツ鹿踊り」ともいわれています。おおよそ岩手県南部から宮城県域にかけて、旧仙台藩領だった地域に広く分布しています。
行山流・金津流・春日流の三流派があり、行山流が最も多く、次いで金津流・春日流となり、さらにそれから派生した流派がいくつかみられます。このシシ踊りはカシラの左右に鹿角を付け、馬の毛で作った「ザイ」と呼ばれる黒髪を頭部から長く垂らします。背中には白くて長い二本のササラを付け、それを時折前屈みになって地面に付着させるような所作があります。東北地方のシシ踊りの中でも独特の風貌を持ち、八頭自ら太鼓を叩いて唄うのが特徴です。
地域や流派により供養起源、模倣起源、春日明神縁因など由来は異なり、また各踊組によって「鹿」と「獅子」の名乗りの違いがありますが、「シシ」は仏法を守護する獅子であり、神の使いの鹿であるので、神事・仏事をはじめとする儀礼に欠かすことのできない郷土芸能であることには間違いありません。
伊手地区には奥山行山流地ノ神鹿踊と金津流伊手獅子躍の二流派が継承されています。
行山流鹿踊は本吉郡水戸辺村(現南三陸町志津川) の伊藤判内持遠によって創始され、享保年中(1716~1735) に東磐井郡大原村(現一関市大東町) の又助が水戸辺の五郎七より伝授を受けて以後、大原村山口屋敷を庭元に又助とその子の喜左衛門が起点となって江刺・東磐井・気仙地方にかけてこの系統の伝播に重要な役割を果たしました。したがって、又助を祖として伝える行山流の系統は行山流山口派と称されています。
地ノ神鹿踊は伊手二渡の円蔵が喜左衛門の門下となり、文政4年(1821) に地ノ神屋敷を庭元として創立したとされますが、山口喜左衛門から免許伝授された東磐井郡築館村( 現一関市大東町沖田) の前田野屋敷源右エ門に地ノ神屋敷夘平治らが弟子入りした宝暦9年(1759) の念書および宝暦11年(1761) の伝書が前田野屋敷に残されています。地ノ神鹿踊は江刺地方の増沢・角懸、気仙地方の高瀬などへ踊りを伝えています。中立と女鹿の「ナガシ」には仙台藩主伊達吉村より賜わったとされる和歌「陸奥濃信夫牡鹿迺牝鹿乃里聲遠楚呂遍天阿曽婦志加可毛」が大書されており、行山流山口派の特徴ともなっています。
金津流獅子躍は仙台藩士の犬飼家に伝わるもので、その踊りは宮城郡国分松森村(現仙台市泉区) を経て、安永8年(1779) に松森村の源十郎より江刺郡石関村の肝入であった小原吉郎治に伝えられました。その後、寛政5年(1793) に藩境警護のため足軽頭として江刺郡に赴任した犬飼清蔵から『金津流獅子躍伝授の目録』を拝受。享和元年(1801) には志田郡松山次橋村(現大崎市松山町) の遠山休左衛門より相伝の書を授かります。金津流躍は小原伊右エ門により文政11年(1828) に栗生沢村へと伝承され、以後は栗生沢が金津流伝播の中核となって近代以降、江刺郡伊手・軽石・気仙郡浦浜・志田郡松山へと踊りを伝えました。
伊手村へは明治36年(1908)、梁川村の佐藤亀治からの相伝によって菊池亀次郎が金津流伊手獅子躍を創立。100年を経た現在も国内外での公演をはじめ、地元の小中学生への指導育成にも力を注いでいます。
念仏剱舞由来秘事並大念佛故事 上伊手剣舞伝本 紙本墨書 個人蔵
大正6年(1917)、宮沢賢治が伊手村に来訪した際、「柿の木屋敷」で演じられた上伊手剣舞の伝本。
本状は上伊手地域に伝わる念仏剣舞「上伊手剣舞」の伝本です。
江刺地方での念仏剣舞は江刺東部の旧村地域に多く分布し、剣舞縁起を同じくする伝本が各所に伝えられています。それらの伝本によると、大同3年(808) に権大僧都法印善行院忠慶と号する僧が出羽の羽黒山に籠もって仏道修行中、訪れた三人の旅僧から『念仏剣舞こそ悪魔退散、如意繁栄をはかる菩提である』と教えられ剣舞を伝授されたとしています。その忠慶が自ら巻物をしたため、羽黒山で習得して広めたのが念仏剣舞の初めとされていますが、当地域に伝わった経緯などについては明らかではありません。
文中には忠慶と旅の僧との問答場面があり、旅の僧が『大明神本地(仏の姿) 如何』と問うと、忠慶は『金剛界の大日(大日如来)である』と答えていることから、忠慶は山岳信仰を通じて仏道修行に入った密教僧あるいは修験者であるとの見方もできます。
さらに、演目についても、先ず踊りの①に「神前而再拝踊」、②に「仏前而礼拝踊」、③に「御神楽入踊」と定めており、これらの要素は修験系神楽の式三番の「翁」や「御神楽」の舞との共通性があり、当初の念仏剣舞の形態はこの3種の芸能の組み合わせによるものであった可能性が推測されます。次第に念仏剣舞としての演出方法が進展したことにより演目は定形化され、①②は「翁」の祝祷舞に替えて神前にての「再拝踊」、および仏前にての「礼拝踊」として実際の踊りの場における儀礼的役割を担うようになったものと考えられます。③はスボコ(主坊子) といわれる踊り手が天下泰平と記した軍配を持って軽快に踊る「御神楽入踊」としてとどめており、その原形は修験系神楽の式三番で踊られる「三番さるごう(猿楽/申楽)」にあるかと想定されます。加えて「早念仏刎込入踊」、「片入踊」、「遠念仏練入踊」、「太刀入踊」に狂いの踊りを合わせて形態を整え、今日に見る念仏剣舞の様相を形成し、確立したものと考えられます。
「念仏踊り」の本質は来世を信じ、阿弥陀如来の慈光によって極楽浄土に往生することを願い、また、死者の鎮魂供養を目的とするものですが、さらに悪魔退散による当所安全、五穀豊穣を祈願し安楽浄土に道を開く修験道思想による現世的希求の目的が加わり、密教特有の五大明王(不動明王・大威徳夜叉明王・降三世夜叉明王・軍荼利夜叉明王・金剛夜叉明王) を形どる夜叉面をつけ、如来の教えを奉じて煩悩を砕破し、災害を除き、怨賊を降伏させる剣を振るって踊る「剣舞」として「念仏剣舞」が創出されたものと思われます。また、伝本は忠慶が自らしたため相伝者へ授与する体裁で記されているので、善行院忠慶はなる人物は少なくとも念仏剣舞の一流式としての創出に関与したか、あるいは当地域への伝播者の来訪を指し示す人物として見ることができます。