大正6年(1917) 9月2日、地質調査で江刺郡を訪れていた宮沢賢治が伊手村から友人に宛てたはがきには、伊手付近の岩石の分布図等が示されています。左上には「拡散系(溶媒は空気・溶質は水)」の意の英単語が書かれ、これは空の部分に記した点々が霧であることを表しています。以下、下部の中央には「山崩れ」、その下には「すぐに御想像のつく通り、これらは松の木立であります」とある。右には「かなしめるうま」「蛇紋岩ノ露出」の文字が見え、中央の山は伊手西方の銚子山と推定されています。
明治12年(1879) に伊手村に生まれる。
明治35年(1902) に岩手師範学校(現岩手大学教育学部) を卒業し教員となり、盛岡市仁王尋常小学校、江刺郡上伊手尋常小学校などに勤務する傍ら、岩手県内を中心に精力的な植物採集を行い、種子植物分類学の大家で「日本植物学の父」と称される牧野富太郎など中央学者との密接な交流もありました。また、県内のみならず日本各地でコケ類や地衣類や真菌類なども採集し、日本産菌類研究の草分けである安田篤の研究を助けており、『南方熊楠全集』(昭和2年2月「植物学雑誌」41巻482号)でも仲治郎の採集資料が紹介されています。
仲治郎が生涯にわたって採集した植物標本(「和川標本」) は数千点にのぼり、その一部は京都大学や国立科学博物館などでも保管されています。