戸隠神社
戸隠神社は坂上田村麻呂が蝦夷平定の際に鎮護神として勧請。その後、源頼義・義家父子が前九・後三年合戦の際に戦勝を祈願したとも伝えられています。また、胆沢城造営にあたり信濃国から移住した人々による勧請とも考えられており、江刺郡成立時の伊手は信濃郷に比定する説があります。
秋の例大祭では、怪力で知られる祭神、手力雄命にちなんで参詣者が力自慢を競い合う「俵運び」が行われます。年齢に応じて15~60㌔の重さの米俵を持ち運び、その年の手力雄命を決定します。
参道の石段は約400段。境内の杉の神木は樹齢700年といわれています。
柄鏡(三つ巴紋松牡丹図)
江戸時代 青銅・鋳造 個人像
和鏡の一種である柄鏡は室町時代に現れ、江戸時代に盛行しました。
神紋である三つ巴紋から、本品は御神鏡として用いられたと考えられ、鋳出銘には「藤原金」とあります。
荒谷神社
荒谷神社棟札(奉修祈雨御祈祷二夜三日専祈攸)
享和2年(1802) 木札墨書 荒谷神社 蔵
荒谷神社で執り行われた降雨祈願の棟礼。
享和2年6月(林鐘) 22日から24日まで、伊手村南北の修験寺院が荒谷神社に参集して二夜三日の祈祷を行いました。裏面にはその経過が記されており、23日の夜に少々の降雨。24日朝五ツ時(8時) も同様の雨。九ツ時( 正午) からは雷を伴う大雨となり、人々が歓喜に沸いたとあります。
荒谷秋葉神社
荒谷秋葉神社は高林寺の守護神として勧請されたと伝えられます。
祭神である秋葉明神の像様は秋葉山三尺坊(静岡県周知郡秋葉山頂) と同様。秋葉権現、飯綱権現とも呼ばれ、火難よけ(火伏せ) の神として信仰されています。本地仏は不動明王とされ、形像は天狗とみなされて、鼻の突き出した烏天狗の顔をして、右手に剣、左手に索(綱) を執り、背に双翼を張り、火焔光をつけて白狐の背に立つのが通例です。
曹洞宗 太白山 高林寺
高林寺は天文2年(1533)、福島の渡利村に住まいしていた亘理安房守の娘蘭子を大旦主として、陽林寺二世盛南和尚が開いたと伝えられ、江戸時代初期、伊手村の地頭藤田氏の菩提寺となりました。
藤田但馬宗和が慶長7年(1602)、江刺郡口内へ移封の際、牌寺として随従。その後、元和8年(1622) 岩谷堂城、正保2年(1645) 伊手村新谷館へ移封。その都度高林寺も移ったとされます。
陽林寺開祖と縁起の中に「仙台領に高林寺を開山」と記されています。また、藤田氏が岩谷堂城の城代になった際、伊手村を休息所として与えられているので、従来いわれているより早い年代に、伊手の地に移されたものと推測されます。
木造 地蔵菩薩坐像
室町時代 像高31・3㌢ 高林寺 蔵
地蔵菩薩はあらゆる場所に身を変じてあらわれ、地獄におちた衆生をも救済します。衆生済度(救うこと) を容易にするため人々に親しみやすい声聞形(釈迦在世の弟子の姿) すなわち僧形となって現れ、その化身の姿で信奉されています。したがって、菩薩でありながら地蔵像は僧形に造られます。
本像はカツラ材の一木造で、円頂・彫眼・三道を彫出し、腹前にわずかに僧祗支をのぞかせ大衣をつけ結跏趺坐しています。穏やかな形制ながらも肩幅が広く堂々とした姿を示す室町時代の作です。
木造 僧形立像
室町時代 像高41㌢ 高林寺 蔵
釈迦如来の十大弟子像のうちの一体と思われる一木造の僧形像で、胡粉下地に色彩を施していたことが確認できます。小像ながらも右足を一歩前に出すことによってできる衣文を、衣の柔らかな質感とともに見事に表現されています。
木造 僧形立像
室町時代 像高39・5㌢ 高林寺 蔵
一木から彫出された僧形像で、頬骨高く肋骨があらわとなった姿を示しています。静かな形制ながらも下半身の微妙な動きによって生じる衣文を鋭く表現し、本像の全体像を印象付けています。釈迦如来に随侍する十大弟子像のうちの一体と考えられます。
曹洞宗 心相山 的叟寺
慶長年間(1596~1614) 開山と伝えられていますが、安永寺書出には元和10年(1624) とあります。正法寺十七世格翁良逸(瑞徳寺八世) の開山で、開基は菊池作兵衛恒義(信方)。菊池氏の菩提寺といわれる。
菊池家由緒書によると、菊池作兵衛は、慶長年間、伊達政宗から50貫文(500石) の知行を受け、菊池館に住んだとあります。
曹洞宗 報恩山 明蔵寺
大永4年(1524) 正法寺十一世観室良盛の法子、繁室盛林の開山と伝えられますが、『宝暦風土記』や安永の寺書出には文禄2年(1593) とあります。当初は伊手村古館(寺屋敷) にありましたが、火災で焼失し現在地に再建されたと伝えられます。安政五年(1858) の『当山什物改帳』には釈迦尊像、永平尊像、客殿ふすま等の施主名があるので、再建造営年代と推定されます。
真言宗智山派 如意山 眞行寺
延暦13年(794)、慈覚大師が薬師如来を祀り草庵を結んだのが創建の由来として伝えられています。
天文年間(1532~1554)、藤田但馬が戦勝祈願寺として意元法印を迎えて開山。元和3年(1617) には岩谷堂に所在したともいわれています。
寛永19年(1642) には藤田氏の封地替えで上口内に移り、明暦2年(1656)に現在地に移ったと伝えられます。
当初は根来寺(和歌山県) 末でしたが、元禄3年(1690)、京都智積院の学僧弘誉(こうよ)が伊手村を訪れ、村民の帰依を受けて本山を京都智積院と定めました。元禄13年(1700) 伊手村へ足軽衆20人が配置されて以来、その菩提寺として現在に至ります。
オシラ神
色鮮やかな布片で幾重にも重ね着された神像。これらは地域によって「オシラサマ」「オヒラサマ」「オシラガミ」「オシラボトケ」「オコナイサマ」「オシンメイサマ」など多くの呼称を持ち、頭部を露出した状態で男神、女神、馬頭などの造形が施されているものや頭部を露出せず多くの布片で覆われているため、その造形が分からなくなってしまったものがあります。
このような独特の形状・様相を呈した神像は東北地方特有のものであり、民俗神として総じて「オシラ神」と称されています。
オシラ神は江刺地方にも広く分布しており呼称も「オシラサマ」が多く、この他にも「オシラボトケ」「オシラガミサマ」「オヒラサマ」「オッシャサマ」「ジュウロクゼンシン(十六善神)」など所有する家によって様々です。
神体の材質は桑の木が大多数ですが、竹が使用されたものも数体存在しています。また、岩手県内全域でも材質の割合は桑の木が大半を占め、竹はそれ程多くありませんが、宮城県では桑の木と竹の割合が半々にみられます。これは岩手県南地方から宮城県域にかけての旧仙台藩領に分布する巫女「オガミサン」に関係するものと考えられており、オガミサンが修行を終えて独立する際に師匠から与えられる道具の一つにオシラ神があり、それが竹を素材とするものであることから、竹のオシラ神はもともとオガミサンと関係の深いものであったと考えられています。
カマ神
古来より「火」は畏敬の念によって崇められ、火やそれに伴う明かりは生産と消滅・破壊に深く関わるとともに人々が集う場でもありました。このように人々の生活を支える火やカマドを祀る祭祀の事例は全国各地にみることができますが、岩手県南地域から宮城県域では特に土間のカマド近くの柱や壁に土や木の面を祀る「カマ神」信仰の風習があります。これらの面は一般的には「カマガミサマ」と呼ばれ、地域よっては「カマオトコ」「カマボトケ」などの呼称で信仰されてきましたが、現代では生活様式の変化や家の建替えなどによってその個体数は減少傾向にあり、一部の旧家のみで所在が確認されています。
カマ神の分布の特徴としては旧仙台藩領に相当する地域が圧倒的に多いことから、仙台藩領における特有の民俗信仰とも考えられていますが、藩境地域である和賀郡などにも分布がみられることや、旧仙台藩領域に属していてもまったく確認されない地域もあります。
カマ神が祀られる場所は土間のカマド付近である点はどの地域でも共通しており、その多くは戸口に向けられて柱や壁に設置されています。
カマ神の性格は、火を守り火難除けをする神とされていますが、併せて盗難除けや魔除け、厄除けとしての信仰も厚く、カマ神の厳しい表情が戸口に向けられることで家内安全の祈願も込められていたと考えられます。
まいりのほとけ
「まいりのほとけ」は10月の祭日に家やお堂に縁者近隣の人々が集まり参拝する掛軸や木像で、これらは岩手県内の各地に広く分布が確認されていますが、特に北上川中流域における江刺・胆沢・和賀・稗貫・紫波の地域に多く伝わっています。呼称も「まいりのほとけ」のほか「十月ぼとけ」「オヒササマ」「オヒラサマ」などと呼ばれ、祭日には縁者近隣が米を持ち寄って、念仏を唱え食事を共にして過ごした後、帰りにはお供え物の団子や饅頭などがお土産として配られます。「まいりのほとけ」の発祥については、庶民の間にまだ菩提寺が無かった時代、亡くなった人があればその枕元、あるいは墓所に行き掛軸や木像を祀り、皆で極楽往生を祈ったものと考えられています。
掛軸に描かれる多くは「阿弥陀如来」や「聖徳太子」で、ほかにも「善導大師」「不動明王」「地蔵菩薩」「釈迦涅槃図」が描かれたものや「南無阿弥陀仏」と大書された名号などがあります。特に聖徳太子画像は父である用明天皇を看病し病気平癒を祈った16歳の太子の姿「孝養太子像」や、27歳の太子が甲斐国から献上された神馬の黒駒に乗り3日間で富士山を登り、さらに信濃の善光寺を参拝して都に帰ってきたという逸話を題材に描かれた「黒駒太子像」が多く見られます。
このことから、「まいりのほとけ」は聖徳太子を深く信仰していた親鸞を開祖とする浄土真宗が東北地方に伝播したことと深い関わりがあるものと考えられています。
現在の岩手県地方に浄土真宗を広めたのは是信房という僧侶で、北上川中流域の地域に「まいりのほとけ」が多く伝えられている理由として、是信房が布教のため移り住んだとされるのが和賀・稗貫・紫波の地域であったためと考えられています。さらに是信房の命日がある10月に祭日が設けられていることも、かつては是信房への供養の念を捧げる日であったのが、江戸時代に庶民が菩提寺を持つようになってからは、慣例としての「おがみ日」だけが残り、祖霊を祀る行事へと変化を遂げながら伝承されるようになったと考えられます。なお、江刺地方では「オシラ神」と「まいりのほとけ」が習合した形態で祀られている事例も多く見られます。