浄火を崇め祀る
伊手熊野神社蘇民祭
蘇民祭は岩手県内を中心に伝わる裸詣の一つですが、蘇民将来の信仰そのものは全国各地に分布しており、京都の八坂神社の祇園祭で頒布される「蘇民将来之子孫也」と記された護符が代表的な事例といわれています。また、伊勢地方の正月では各家庭で飾られる注連縄に「蘇民将来子孫家門」と書かれた木札を付ける風習も広く知られています。
これら蘇民将来信仰の起源は奈良時代の『備後国風土記』にみられる蘇民将来の説話によるもので、その昔、北海に坐す武塔神が旅の途中で、将来兄弟の家に立ち寄り宿を乞うたところ、裕福な弟・巨旦将来は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。この蘇民のまごころを喜び、後に再訪した武塔神は自分がスサノオノミコトであることを告げ、蘇民の家族に茅の輪を腰に付けさせた。これで一家は疫病を免れ無事に過ごしたとされています。この神話は神楽の題材としても取り上げられており、山伏系の神楽では「天王舞」として舞っています。また、蘇民将来の護符では長岡京跡から出土した「蘇民将来」と記された木簡がその最古例といえます。
伊手熊野神社の蘇民祭は400年以上前に黒石寺より伝えられたとされています。
「火まつり」とも称される通り、伊手蘇民祭は「歳戸木」と呼ばれる井桁積みにされた丸太が3㍍以上の高さにまで組まれ、数ある蘇民祭の中でも最大の火勢の中で「火たき登り( 柴燈木登り)」を行うのが特徴です。
祭りは神社別当宅で行われる「ご膳上げ(別当祭)」にはじまります。総代、厄年連、保存会などの関係者が祭事の無事を祈願。その後、「四角」と呼ばれる角灯を手に祈願者らが山伏の法螺貝を先頭に神具や供物を神社に運ぶ「四角登り(夏祭り)」が行われ、神社幣殿にて祈祷を受けます。
午後9時、厄年連などの男衆が下帯姿で「ジャッソー」「ジョヤサ」の掛け声とともに丸木で造られた魔除けの梵天を掲げ、手木で参道を祓いながら境内に入場。歳戸木に登り最上部に梵天を据えると火が放たれます。「山内節」が響き渡る中、手木と角灯をかざす男衆の掛け声も一層激しさを増し、燃え盛る歳戸木を中心に「火たき登り」が展開されます。なお、この掛け声は「邪正」「除夜祭」が転訛したものと考えられています。
全身に火の粉と煙をあびて身を清めると、炎の中から燃えさしを引き出し、地面を祓いながら社殿へと向かいます。建物の外壁を燃えさしで叩き、途中、親方衆ともみ合いながらも入宮が許されると飛び散る火の粉で拝殿の壁と床を清めて拝礼。厄災防除を祈願します。また、一般参詣者は火たきで正月飾りを焼き、御神火にあたることで一年の無病息災・家内安全を祈ります。
午後10時。氏子や厄年連の男衆らに守られながら、別当と蘇民袋が神社に詣でる「別当登り」「袋登り」が行われ、厄災防除と五穀豊穣を祈願。
午後11時「鬼子登り」。父親に背負われた7歳の男の子が2人、麻衣に鬼の面を背負い参道を登ります。一説にはこの鬼子は山神であり農業神でもあるともいわれています。鬼子が幣殿に入ると続いて男衆が拝殿に参集。格子戸に登り気勢を上げながら蘇民袋の出現を待ち、鬼子が参拝を終えると蘇民袋争奪戦が開始されます。
蘇民袋は麻布の袋に蘇民将来の護符である小間木を入れたもので、敵将の首にみたてて裸の若者たちが奪い合うのだともいわれています。厄年連によって御福銭が撒かれ、蘇民袋は刃入れによって切り開かれると散乱した小間木を拾おうと群衆が殺到。拝殿内は騒然となります。なお、この小間木の中には多角形に面取りされ、側面に「蘇民将来子孫家門」と書かれたものが12個含まれています。
袋が空になると争奪戦は本格化し、社殿の外へと展開。石段の参道を下り、道路にまでおよんでも激しさは続き、最後まで袋の口前をつかんでいた者が取主となります。
蘇民祭は蘇民将来信仰による厄除けの行事であると同時に民間信仰の作占いであるともいわれています。火たき登りは心身の浄化であり、火の燃え具合で作を占う大護摩だとされ、「歳戸木」は落雷を受けて神仏が宿った樹木を使用するとの伝えもあります。その燃えさしで地面や社殿を叩いて邪気を祓うのは修験道における火の信仰を思わせます。